「年少者に対する日本語教育の諸問題 -栃木県における事例を中心に-」『白鴎ビジネスレビュー』Vol.9 (2000年) より一部抜粋
Ⅳ.外国で学び生活するということ(チリの小学校の体験から)
筆者は1995年3月から1996年の3月まで白鴎大学の研修制度を利用して南米のチリに1年間滞在することができた.その際二人の子どもも同行し,彼らは1997年1月初頭まで1年10ヶ月にわたってチリの現地校へ通学した.その時の体験から,チリの小学校の様子や,児童の言語習得,あるいは生活適応に関して参考になりそうな事例を思いつくままにあげてみたい.ブラジルやペルーとはやや事情が異なるかもしれないが,同じ南米ということで共通点も多いと思われる.
1.学校生活について
我々はチリの首都サンティアーゴの中産階級が居住する地区に住んでいた.近くには公立校もあったが,午前と午後の二部制であり,クラスの人数も多く,とても外国人児童の面倒は見られないだろう,という知人のアドバイスで,歩いて12,3分ほどの私立学校に入学を決めた.そこは中産階級に属しリベラルな考えの保護者が多いということであった.
学校は小さい.1学年1クラスで,1クラス25人程度.幼稚園年中組にあたる年齢から小学校5年生までの7クラスが同じ敷地で学ぶ.チリの義務教育は8年で,小学校にあたるenseñanza básicaが5年,中学校に当たるenseñanza mediaが3年である.
制服はなし(ただし,学校によっては制服がある).
授業は45分で,午後まで授業がある.(公立は,8時から12時と1時から5時までの2部制)
授業が始まると門が閉められる.遅刻した場合や用のある時はブザーを押して開けてもらう.遅刻には寛容である.
女の子はピアスをしている.すそがくるぶしまであるような服を着てきたり,装身具をつける子もいる.先生自身も自由な服装や髪型をしている.
学校に売店がありお菓子や飲み物を売っている.学校にお金を持ってくる(かなり高額のお金を持ってくる子もいる).子どもどうしで物を売ったり買ったりする.当時アニメ関連のシールを集めるのが流行っていて取りかえたり,売買したりしていた.相手がどうしてもほしいシールを自分が持っていると値段をつり上げるなど,なかなか商魂たくましい.息子が自分で作った折り紙の作品を持っていくと売ってくれと言われる.
学校におかしの移動販売車が来る.授業が終わった頃校門のところに来て子どもが買いに行く.
登下校時は親が徒歩や車で送り迎えをする.場合によってはお手伝いさんが送り迎えをする(住み込みのお手伝いさんもいるので).有料のスクールバスもあるが,これは学校の運営ではなく,個人の営業.
下校時間はまちまちで授業が終わった後は親が迎えにくるまで庭で遊んでいる.
週休2日で,しかも金曜日は午前中のみ.飛び休があると間の日は慣習的に休みになる.
新学期は3月に始まり,12月に終了する.南半球なので夏休みは1月と2月を含み2ヶ月以上.
教科書とノートは学校に置きっぱなしの子が多い.その他の学用品(鉛筆,消しゴム,クレヨン,色鉛筆,はさみ,紙類,等)は学年のはじめに大量に買わされ,教室に置いておいてみんなで使う.なぜ個人の管理にしないのかと聞いたところ,そうすると忘れる子が続出するからだという説明だった.
父母会(親が集まって行事や学校の問題などを話し合う)や学校の行事などは夕方から始まる.ほぼすべての家庭で共働きだから.父母会には父親の参加が目立った.日本のような学校主導のPTA活動はない.
発表会やお祭りなどの行事があるが,日本の学校の運動会や音楽会のように練習を繰り返す様なことはしない.低学年はごく簡単なダンスや行列.開会式,閉会式といった形式的なことはしない.
朝礼に類したものはない.「何々先生のお話」もない.
掃除は教室だけなので全員でやる必要がなく当番制.床を掃いてモップで拭く,庭やトイレは用務員がやる.中流以上の家庭には家政婦さんがいるので,家では家事を手伝う習慣がない.
昼休みが長い,1時間半位.
給食はなくお弁当持参.パンとりんごだけという簡単な食事をとる子もいる.小さな魔法瓶のような入れ物に入れてくる子が多いが,品数は少なく,スパゲッティとか,ゆでたパスタと肉料理といった程度.
身体測定,健康診断などはない.予防注射は実施される.
宿泊学習は最高学年のみ.
音楽,体育,図工の時間はあるが,教科書はなく,何をやるかは担当の教員に任されている.音楽ではリコーダーをやった.意外にも歌の練習はなし.体育の時は校庭が狭いので徒歩またはバスで地区の体育館まで移動する.体育着はなく,そのままの服装で運動する.サッカー,バスケットボール,マラソン,体操などをやったが,鉄棒,跳び箱,マット運動,縄跳,水泳などはやらなかった.プールがある家庭も多いので,水泳は必要ないのだろう.
理科では実験を扱わない.社会科でも見学といった項目はない.一般的に体験的学習は重んじられない.
4年生の教科書はアメリカで出版されたスペイン語話者用の分厚いものが用いられた.チリで出版された教科書に適当なものがなかったためだと思われる.チリでは教科教育法の研究が進んでいないように思われる.
学校の設備という点では日本のほうが遙かに恵まれている.図書館,体育館,理科室,音楽室,調理室,保健室などいずれもない.
どの家庭でも誕生会をやる.場合によってはクラス全員を招待する.家に招待できない時には学校で誕生会をやることもある.その場合には親がケーキと飲み物,ポテトチップスやおみやげなどを用意する.
子どもどうしはよく友達の家に遊びにいったり,泊まったりしている.夜更かしの子が多い.
家庭訪問や懇談会,授業参観などはない.親は朝や帰りの送り迎えの際に担任と接触できるのでその際に話をする.授業も窓から覗ける.
2.学習面について
Y男は日本の小学校に2年生の3学期の途中(2月)まで在学し,3月からチリの私立小学校の2年生に入学した.チリでは3月に新学期が始まる.
A子は小学校に入学する直前にチリに行き,3月からもう一度小学校移行期年長組(transición mayor)に入学した.
チリでは,スペイン語ができない外国人は 一学年下の学年に編入され,一年後のスペイン語の理解度を確認した後,年齢相当の学年に編入が許されるようである.
チリでは同じ学年を繰り返す(repetir)ことがよくある.日本でいえば落第にあたるが,親にも子にも先生にも落第という暗いイメージはあまり感じられない.子供が勉強についていけないのはかわいそうだからと言って小学校入学をあえて1年遅らせる親もいる.
Y男もA子もスペイン語はまったく話せない状態でチリに行った.親の方もわずかに1から10までの数の数え方と,名前の言い方くらいしか教えなかった.子どもは柔軟だからすぐにスペイン語を覚えられるだろうとかなり楽観視していた.また,チリの教科教育法も日本と同じくらいしっかりしているだろうと考えて安心していた.子どものバイリンガル教育に関する予備知識もあまりなく,今考えると実に安易だったと思う.
Y男のクラスは二年生で25人程度.その日のうちに休み時間に女の子と追いかけっこをして遊んだり,女の子の誕生日に呼ばれるくらいクラスに溶け込んでいた.学校に行くのをいやがったりもしなかった.
A子は日本でいう幼稚園の年長組に編入され,絵をかいたり,体を動かしたり,遊んだりという生活だったので,学習面での困難というものはなかった.ただ,Y男に比べて社交的な性格ではないために,クラスの友達が遊ぼうと誘っても一緒に遊べなかったり,親と別れる時に大泣きしたりした.
2ヶ月ほど経って,私達はY男が黒板のスペイン語をノートに写すことはできていても,実はスペイン語の読み書きをほとんど理解していないこと,基本的な文法が分かっていないことに気づいた.そこで,絵本を読ませながらスペイン語の読みと簡単な文法を教えることにした.
スペイン語の読みは比較的簡単なので,二人とも1ヶ月ぐらいでたとえ意味はわからなくても,読むことだけはできるようになってきた.
私たちはスペイン語の授業は低学年なのだから声をだして読むことが基本なのだろうと考えていた.そうすれば,Y男も文字と音との対応関係がつかめるだろうと期待していたのだが,その期待は見事に裏切られた.チリの小学校では音読をしないのだ.一年に数回読みの簡単なテストがあるだけで,普段の授業ではほとんど音読をしない.だからY男によると,4年生のクラスになっても自分より読みがたどたどしい子もいたというくらいである.
チリの小学校で音読を重視しないのは,スペイン語の読み書きが比較的容易だからで,「どうせ放っておいてもそのうちに読めるようになるから」であろうと思われる.同じ精神は算数にも当てはまる.日本のように7+8を計算するのに7を5+2,8を5+3に分解し,5+5で10,2+3で5,従って15になるという教授法をとらない.これも基本的には暗記である.つまり,我々が2+3が5,3+4が7になるのを基本的には暗記するしかないのと同じ意味で,7+8や6+9も暗記や慣れの問題と考えているようである.
チリでは教員の社会的地位は高いとは言えないし,給料も多くはない.社会全体の教育に対する熱意が日本ほど高くない.
1年が経過した時点で,Y男は簡単なスペイン語の面接試験を受け,年齢相当の4学年に編入が許可された.つまり3年次を飛ばす訳である.私達は勉強もむずかしくなるし,折角仲良くなったクラスメートとも別れてしまうので,4学年に進ませるのをためらう気持もあった.しかし,本人がやってもいいというので,不安を感じながらも3年次をスキップし,4年次に進級させることにした.後で聞いたところによると,4年生担当の先生もついていけるのだろうかと心配だったそうである.しかし,結果的には大成功で,年齢相当の学年で過ごすメリットは非常に大きかった.親友と呼べるほどの友だちが二人できたからである.A子も1年次をスキップし,年齢相当の2年次に進級した.
2年目になると日常会話はだいぶ分かってきたようだが,教科書の理解にはほど遠く,日本語に翻訳して説明してやっていた.Y男は4年に編入されてから定期的に試験があるので(月の始めに試験のスケジュール表を渡される),試験の準備に追われた.宿題もかなりある.さらに日本語(特に漢字)の勉強もしなくてはならず,7,8歳くらいの子どもにとって毎日2時間以上勉強するのはさぞ大変だったことだろう.特にA子は6歳の時から1時間以上の家庭学習を余儀なくされ、よくがんばったことと思う。(その後日本に帰った時は日本語の勉強だけすればよくなり、こんなに楽なものかとほっとした.)それでも学年が進むに従って現地校の学習と日本語の勉強の両立はますます困難になり,バイリンガル教育は子どもに過重な負担を強いることになったろうと思われる.
チリで漢字の学習をやってはいたが,日本に帰ってからやはり完全に定着してはいないことが判明した.特に書き順はめちゃくちゃであった.A子はそもそも日本での学校教育を経験していないので,鉛筆の持ち方がきちんとできず,字の形が非常にきたなかったが,日本に帰ってきてだいぶ改善された.Y男は帰国後2年くらいたってもカタカナが苦手であった.
チリの試験は7点満点で4点以上が合格となる(5.5のような小数点評価もある).試験は全員の前で点数が読み上げられて返される.(不合格の場合は点数こそ発表されないが,不合格ということは全員に分ってしまう.)通知票のようなものはなく,各教科の成績が表になって渡される.
母国語の基本的な読み書きができない状態で外国語にさらされると,母国語の維持,発展は非常に困難になると思う.修学前にチリに渡ったA子が1,2年生の国語の教科書を勉強できたのは,ひらがなの読み書き能力がすでにあったからである.また,本が好きなことも幸いした.そうでなかったら母国語教育はさらに困難になっていたと思われる.
スペイン語と日本語,あるいはポルトガル語と日本語のように言語の隔たりが大きい場合、年齢相当の能力を両言語で発揮できるようになるのは至難の業である.特に日本語の文字体系は世界の文字体系の中でも極めて特異で複雑なので、習得に非常に時間がかかる。
言語にあまり頼らない科目(算数、体育、音楽、美術,等)の中で得意なものがあれば,本人の自信につながり,他の児童も彼の存在に一目おくことになる。また,運動能力は一般的に日本人の児童の方が上である。日本の小学校では中程度でも現地の小学校では上のレベルになる.これは、運動場が狭い、体育館がない、鉄棒・マット・飛び箱・縄跳びといった用具がなく,学年ごとに系統立てた体育教育が行われていない,さらに,一日中靴をはいているせいか偏平足気味の子がいたり,太り気味の子が多い、等によるものであろう。
折り紙は非常に興味をひいて,先生がわざわざ折り紙の授業時間を作ってくれたり,他のクラスにまで教えに行ったりした.
日本や日本人に対する差別的な感情はほとんど感じられなかった.(「私達の中にもインディオの血が流れているから」と言った人がいた.)むしろ,日本製品へのあこがれ,豊かな国であるというイメージ,子どもたちはもっと素朴にアニメのヒーローの生まれた国に対する肯定の感情が感じられた.日本人自身も強い円のおかげで日本にいるよりも豊かな暮らしができる.
チリの子どもたちも非常に友好的で,Y男もA子も友だちの誕生日に呼ばれたり,家に遊びに行ったり泊まったり,別荘に招待されたりした.二人とも日本人であることの負のアイデンティティ感情をもつことがなく,適応は非常にうまくいった方だと思われる.
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